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ジョーカーをみる(映画感想、ネタバレあり)

ジョーカーをみて久々にいろいろ吐き出したくなったのでブログに長々と
字幕版一回見ただけでバットマンは「ニンジャバットマン」しか見たことないという体たらく
尚且つこれは自分の浅い考えでの感想なので間違っている可能性大きいけども

●悲劇と喜劇の違い
見終わった後でいろいろ考えている間、個人的に一番引っかかったところとして
作中の終盤で主人公アーサーは「自分の人生は悲劇だと思っていたが喜劇だと思うことにした」というようなことを言う
このセリフは普通なら「悲劇過ぎてもう笑うしかない」という意味の王に思えるが
そういうある種のやけくそ感、みたいなものは感じられなかった
ではその場その場でそれっぽいことを言っただけなのかといえば、そういったノリ重視の映画でもない
しばらく考えて
・悲劇は主人公の心情を理解しないと成立しない
・喜劇は主人公の心情を理解しなくても成立する
という違いなんではないかなという思いに至った
理解者が皆無なアーサーの人生は悲劇として成立しないのだから喜劇になるしかないのではと


作中で一番良心的な小人症の人物がいるのだけども
この人物ですらアーサーが凶行に走ったときにどうして?と言う
見ているこちらとしてはそういう状況になってしまうだろうという可能性は大いに考えられるのだけれど
そういったことを想像すらおらずにその場所に来てしまっている

また、唯一の家族、心の支え、アーサーを肯定してくれる母親は主人公の想像以上に妄想の世界に生きている、精神障害的なものを抱えているということが発覚し、彼女からの肯定が社会的な自己肯定としての意味をなさなくなる

それ以外の人物はそもそも話を聞く気がない人物ばかりだったように思う
雇い主に関してはアーサーの釈明のタイミングすら与えないし、
カウンセラーに対してはアーサー自身が「話を聞いてないだろう?」という
また彼が最後のほうのジョークとして、「ノックノックノック」というのは
(今調べたところノックノックジョークというのがあるそうなのだけれども)
「ノックしてもしもお~~~し」という話聞いてる?的な意味合いで彼以外のすべてにたいしての皮肉のように思った

彼はの自分の人生が喜劇だと認識を切り替える決定は
自分を理解してくれる誰かの誕生をすっぱりあきらめたようにしか思えなかった
特に最後のコメディアンとのやりとりはいくらでも言い返せる余地があり
「君が私の何を知っているというんだ?」あたりはもう盛大なるブーメランで
見ている自分としては「おまえがな!?アーサーの何か知ってて今まで馬鹿にしてくださってたんですかねぇ!?」と心の中では声を大にしていたが
アーサーは説明したり理解を求めたりせず撃ち殺した

エンディングでもジョークを思いついたのち「理解できないだろうけど」と説明はしない


●アーサーは笑いを信じているのか?
また喜劇というもののポジティブというか当然の側面として笑えるというのがあるけど
そもそもアーサーにとって「笑い」ってそんなポジティブなものだったのかなと

アーサーは子供のころから脳の障害で笑いたくもないのに笑ってしまうという状態であり
尚且つそれによって人生に多大な不利益を抱え込んでいるというのがネガティブな要素として一つある
また、彼はコメディアンを目指しているが母の言いつけである「笑顔で人を楽しませる」という路線に従っているというような動機しかでてこない
アーサーは笑いというものにポジティブな衝撃を受け
人生の芯となった結果コメディアンを目指しているというわけではなく
仮の目標であるそこにすがるしかないという意味での人生の方向性でしかなかったように思える

(あとこれは自分の想像でしかないのだけど皆が笑っている環境下であれば自分の笑ってしまう障害を持った状態もその環境下では不自然ではなくなるというのがあったのではと思う)

また彼自身が笑いを理解できていない、もしくはほかの人と笑うポイントに決定的なずれがあるようなシーンがいくつかあって
酒場でコメディアンがジョークを言って観客のみんなが笑うのだけどアーサーだけ笑うタイミングがずれているところや、小人症の同僚をバカにして皆が笑うシーンでアーサーもわらうものの部屋を出た瞬間にすっと真顔になるシーン等、彼自身「笑い」をちっとも楽しめていないように思えた


それでも物語の開始時点では消極的理由であっても笑いは彼にとって救いの分量が大きかったと思うのだけど、最後には笑いの生贄にされてしまう
「笑い」に大きな裏切りを受けた物語最後の彼にとって笑いはもはやネガティブな存在なのではと
実際作中でいくつかコメディ的な間の取り方がされたシーンがあるか個人的にはそこで思ったのは「クスリ、ニヤリ」という笑いではなくて「なんでそんなことになってしまうんだ」という気持ちで
そういう意味でも自分の人生を喜劇、「笑い」を振りまくものであると設定したのは
ゾッとするというか、悪党としての行動原理が完成してしまった感じがある
(そして皮肉にも母親の言いつけである皆御笑顔にという役割を悪役としてのねじ曲がった芯ではあるが、守って生きていくことになる)

またこれは後で批評をあさっていて見かけたことなのだけど
パンフレットには最後の「理解できないだろうけど」の時のジョーカーの「笑い」のみが心からの笑いである、と明記されているらしい
悪役となり、人を踏みにじる側になってやっと心から「笑い」が生じるようになった
これはある種あのコメディアンがやっていたことであり
ジョーカーとしては「ああこれがお前らが感じていた人を踏みにじることで得られる幸福感、笑いという奴か」という風な理解を得てしまったのかもしれないとも少し思った


●アーサーがどこまでやってくれるのか&しまうのかというハラハラ感
上記二点が自分が一番吐き出したかった感想なのでもう大体落ち着いたのだけど
映画としても面白かったということも
個人的にこの映画の面白さは同情すべき人物であるアーサーがどこまでやってしまうのかというところだと思った
上のほうで作内のコメディアンに批判的な心象を書いておいて矛盾してしまうが、見ている側としてはやはり、自分の期待した通りにこちらがスカッとする復讐を果たしてほしいし、後味が悪くなるようなやりすぎなだと感じることはしてほしくないという身勝手な楽しみが存在する
アーサーは元々ひどい人生歩んで生きたところに加速度的にトラブルや社会情勢が重なって
失うものは自分の命ぐらいという存在になってしまうのだけど
彼の境遇に感情移入してみてきた身としては悪党になってしまうのは仕方ないにしても
悪辣なことはしてほしくないと思ってしまう

どこからが悪辣で正当性のない八つ当たりになるかというのは個人個人でライン引きが違うだろうけど
自分の感覚でいえば小人症の男性を殺さずに逃がしたシーンでは本当にほっとした
逆にその後の会場に向かうシーンでは悪役として覚醒したかのようなシーンが入るので
ここまでの暗い雰囲気を吹き飛ばす復讐劇がはじまるのか?彼を笑いものにした存在にどこまでやってくれるのだろうと期待をしてしまっていたりした

そのほかにどこまでが妄想で、どこまでが現実なのかというミステリー要素も面白さとして大きいように思う
いくつかのシーンは完全に妄想だったと明示されるけども
個人的に最後の警察に捕まった後、暴動民衆に囲まれ支持されるシーンは妄想なのか、あのあともう一度捕まったのかちょっと判断しかねる感じ
(感想によっては作中の出来事全てが妄想だという解釈もあるとか)
アーサーがセレブが集まる会場にしれっと侵入できちゃうシーンとかもあって、そこは妄想であるみたいな感想も
自分も見ている最中は「そんな簡単に侵入できちゃうもんなの?」とおもったけど
あそこはアーサーのジョーカー的悪党の才能があったからかなーみたいな解釈してたりする
(返す返すニンジャバットマンしかみてないのに何言ってんだこいつというかんじだけども!)


●映画見る前と見た後
映画を見る前はツイッターの感想で海外での裕福の差が生み出したストレスを反映してのヒットでそれは日本でも起こっているというような話を見かけて
自分自身、貧民側であると大いに思っているので
そういうストレスをジョーカーがいかに反映させ悪役としての答えを見せてくれるのかと思っていたのだけれど
作中でその問題で騒いでいるのは民衆であってジョーカー自身は貧困に悩まされてはいるものの彼の一番の問題はそこではなかった
そういった民衆のうち暴動を起こす人達はジョーカーをヒーローとして祭り上げるもののやはりジョーカーに好き勝手自分の理想の暴発者イメージを押し付けているだけで理解しているわけではない
なのでジョーカーをちゃんと見た後にそういう感想もしくは言説をみると個人的感覚としては首をひねるようになった

もちろん貧民層、富裕層といったレイヤーでの話は社会的にはも自分的にもすごく重要な問題だけど
そこからジョーカーが誕生するといわれてしまうと現実の理解されない人(達)に勝手なイメージ押し付けてる
映画の中の暴動民衆と同じになってしまわないかなーとか
いや映画としての面白さはむしろそこにある気がするので難しいところな気はするけど